壱色ノ匣:ヒトイロノハコ

モノガタリ綴り

純心

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 ―――あんなぁ、

 おおきな液晶画面から眼を離さないまま。ひとりごとの様に彼は話す。

 ―――おれ、おかしいんよ。

 手はキーボードを叩いている。
 床に胡座をかいて座り膝の上に置いたキーボード。使い難そうに思うけれどそれがいつもの彼のスタイル。いつもと変わらない。凄まじいスピードで指が動く。画面の中では俺には理解不能な数字が目まぐるしく打ち込まれていく。

 ふぅ、
 たん!

 終わったようだ。彼はキーボードから手を離して。
「おれ、おかしいんよ」
 くるん、と。
 顔だけ俺の方に向けると、もう一度云った。
「・・・・・・?」
 このひとの、おかしい、基準?
 世の常識。その基準からかけ離れているこのひとの? 頭の中に「?」が浮かび続ける。
 彼の好みに合わせて淹れた珈琲。砂糖をたっぷり、牛乳を少し入れて温めに。
「ありがと」
 彼は手渡したマグカップを受け取ると一気に飲み乾した。俺は彼の膝からキーボードを取り、床に置いて、空になったカップに珈琲を再び満たす。2杯目はブラックで。
「この辺が、きゅーって」
 半分ほど飲んで。あらぬ方を眺めながら彼が云う。
「きゅーって、なるんよ」
「この辺・・・・・・胃ですか?」
「胃・・・・・・かなぁ?」
 胃の辺りに眼を向けた。
「苦しくなるんよ」
「え! 心臓?」
「心臓、かなぁ?」
首を傾げて。傍らに伏せてあった雑誌を開く。そのまま、ぱらぱらとページを捲り、気になった記事を見つけたのか読み始めた。
 こんな風に唐突に会話が始まリ終わるのもいつものことだ。俺はポットに残った珈琲を自分のカップに注いで飲み乾した。

   なぁ?
  なんです?
   たいせつなもんが、あるんよ。
  はい、
   たいせつだからな、しまっておきたいんよ。
  はい。
   ほかのヤツにさわられたりな。みられたり。いやなんよ。だからしまっておきたいんよ。

 眼を雑誌に落としたまま。そんなことを云う。

  あなたにもそんな執着心があるんですね。
   うん?
  驚きました、
   そうか?
  はい。
   おれ、けっこうごうよくやで?

「おれ、コーヒーいれる」
「へ? 淹れられるんですか?」
「そのくらいできる。インスタントやけど」
 まぁ、なんだかんだでひとり暮らししているんだから、そのくらいはできる筈だよな。

「濃いですやん! ・・・・・・ってか、苦い」
「そうか?」
「どんだけ入れたんです? 粉」
「え? スプーン、2杯やで?」
「これ食事用のスプーンやないですか」
「やって、スプーンやろ?」
 きょとんとしたまあるい瞳孔が俺を捉える。ああ、もう。だから俺はこのひとを放っておけないんだ。
 綺麗なヒトだと思った。初めてその姿を眼にしたときから。
 貌立ち、躰つき、立ち姿、横顔。すべてが完璧で。
 穏やかな性格も、
 こどもみたいな純粋さも。
 常識なんて通じないところも。
 なにもかも。
 綺麗で。
 その純粋さが、
 時折酷く残酷に思えて。
 ああ、綺麗で。深い深いその瞳の奥に。とりこまれたいと。

「たいせつだからだれにもさわられたくないからどこにもいかないでほしいから、」

 目覚めたとき、―――あれ? いつの間に眠ってしまったんだろう。
 目覚めたとき、
 彼の綺麗な鳶色の瞳が俺を見ていた。
「ここが、きゅーってなって」
 瞬きをあまりしない、彼の大きな瞳。
「ここが、くるしくなって」
 きらきらと、
「なぁ? これって、なんなん?」
 ゆっくりと、桜色の唇が、緩く弧を描く。
 なんでだ? 躰が動かない。
「ずーっと考えてたんや、そしたらな、」
 深まる、笑み。「よーやっと、わかった。うん、わかったで?」
 天使さえも叶わない。その笑顔。

「あ  い  し  て  る」

 ああ、
 このひとにもそんな感情があったんだ。

 動かない躰。声も出せない。
 キコエルのは彼の声。
 映るのは彼の笑顔。

 鈍く光る、銀の刃。